製茶機械輸出、スリランカ製紅茶機械輸入 マルコ・ポーロ ジャポン
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30年以上のお茶の経験を生かして紅茶機械を販売。機械の取付、アフターサービスも万全! 静岡県掛川市 株式会社マルコ・ポーロ ジャポン
スリランカ紅茶機械 製品案内
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紅茶の製造方法
世界の茶産地紹介
「我、日本のマルコ・ポーロとならん」著
東京新聞出版部
A5判384頁 ¥2,000
全国の有名書店で販売中
影山 淳
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世界の茶・日本の茶産地World Tea
日本の茶
株式会社マルコ・ポーロ ジャポンは世界の茶産地に出かけ、茶産地の最新情報をお届けしています。
中国の茶
河南省信陽市光山県

中国で悲しいことが沢山ある。
市場経済への変革で、すざましい勢いで経済発展をしている影で、歴史文化財が見捨てられている。
左図も然り、田舎町の光山市には近代的なビルはあるが、文化遺産たるものは、唯一この仏塔だけである。
その仏塔は街の中央に在るにもかかわらず、雑草に覆われて近づくことも出来ないほどの荒れ模様である。
仏塔にも雑草が茂り、哀れな姿で立っていた。

夕方にスケッチを終へて、帰ろうとしたら、赤い夕日に覆われた。
日本からは、上海へ入り、その後各地へ移動する。
上海は、予想以上に近代的名大都市であった。

長い出張時にたまの休日とし、地下鉄で川向こうの浦東(プートン)に行き、上海の町並みをプートン側かわ見たのが左のスケッチです。

運河には船がひっきりなしに往来し地上には摩天楼のビルが林立し東洋の経済の中心地と云った上海は今も健在なり。

上の教会は、上海繁華街の中心地の人民公園北東の教会です。
背後の「中福・・」と描かれた建物が我々の定宿の「中福大飯店」
上海浦東発展銀行。

上海市内の東側に沿って流れる黄浦江は運河である。
この運河沿いは、古い建物が数多く残っている。

出張の度に、時間を見つけてこうした古い建物を
一つづつ描いていこうと思う。
このスケッチをしているときも、多くの見物人に囲まれてしまう。上手であれば良いが、この様に下手な絵では、覆い隠して、シーシーとギャラリーを追い払うのが常である

上海名物 タワー

地下鉄駅からタワーを目印にブラブラ歩いた。
過って世界一の高さを誇っていたビルを過ぎ、
更に再び世界一を目指して建設中のビルを過ぎると
前方に現われたのが、名物上海タワーである。
(東方明珠塔が正式名称である)

街路樹の木陰で見上げて描いていたが、1階と地上部も
描きたかったのだが、スペースがなくなって、この通り、
基礎のないビルとなってしまった。

色付けは帰国して、色エンピツで塗った。

江南省信陽市 西方地方の茶園
信陽市の役人さんの案内で、当地の茶園の視察をした。中国はどこへ行っても貧弱な園相の茶園ばかりであったが、当地の茶園はまずまずの園相が多かった。清々しい風景につられて湖岸に歩み寄ると、対岸彼方に茶園が続いていた。すると、どこからでもなく「人声」が聞こえてきた。直ぐ近くに聞こえた。ジーッと辺りを見渡すが・・・やっと見付けた。遥か彼方の湖上を数人の人を乗せた筏が進んでいた。スケッチには描けない点の様な大きさであるが、大きく描いた。4百〜5百b先の人声がハッキリと聞き取れる異常な静寂さに驚かされた。日本ではとても考えられないことである。
淅江省杭州市 西湖湖畔
中国の茶の中心地である杭州市は西湖と言う風光明媚な自然を保有している。マルコポーロは著書の中で、キンサイと言う名で杭州を紹介している。世界中で最も美しく、商業の発達した町である旨書かれている。移動間際の寸暇にスケッチして色は帰国して塗った。橋の右手のイタリア・レストランで洋食の昼食を食べて、ベンチの空くのを待って描いた。
人影を入れたい。
四川省成都
三国志の劉備玄徳の菩提寺の前のチベット、レストランからのスケッチ。

成都はきれいな町で、私にとっては、杭州と同様に好きな街である。
四川省峨眉山
幹線から1時間余も山中に向かうと、山のてっぺんまで耕された茶園の風景に出会った。

見上げる稜線は霞んでいた。
新緑の春に来れば、さぞかしすばらしい景観になるであろうと思った。
湘豊茶業旧司 庭園
当工場主の湯しには、様々な贈り物があるようで、当さるすべり、が工場周辺に数十本植えられている。友人からの贈り物だと聞いた。
その、さるすべり、が9月になると見事に咲いた。可憐なピンク色をしているのだが、私の技術ではとても、その色を出せないのでご勘弁。

背は低いものの、樹齢100年は経っているであろう。下部の幹は太く、立派である。
湘豊茶業旧司の入り口付近の
春の風景

中国の春は菜の花が咲き乱れ、国土を黄色に染め上げる。
湘豊茶業旧司の裏山をジョギングで進むと開墾された見事な茶園に出くわす。
まだ、朝の6時だと言うのに、自転車を押して辿りついたご婦人たちが、急いで茶摘を始めた。
手積みで「芽」だけの摘み取りは1日摘んでも数キロであろう。


中国の茶の生産量は82万トンです。
淅江省、福建省が双へきで、安徽、雲南、湖北、湖南、河南、、、と中国南部から東部の沿海に面した地方が産地です。
詳細な数値は、一般的なWebや茶業研究書で調べてください。
地元の省毎に研究所があり、これ等の発する数値と一般に流布している数値が大きく違っていることがたくさんあります。
どちらが正しいかを詮索する気持ちは私にはありません。
どちらも違っているのが実状ではないかと思います。
正しい数値は、省も国も掴めていないと思います。
日本のように、農協の組織がないので無理でしょう。
製品である荒茶の販売も、市場に流れる物が少なく、多岐にわたるルートで売買されています。
左スケッチ・福建省北部松渓市地方の茶園と国営釜炒り工場
福建省北部の武夷山市から車で2時間程で建?市まで南下し再び東北方向へ2時間程行くと、茶園が延々と続きだした。松渓市に入る。
貧しい農村地帯である。
山間の細い道を辿る。日本の田舎に似た狭い田んぼは既に秋の刈り入れが終わっていた。
すると、予想だにしなかった狭い谷に当スケッチの工場が現われた。
元国営製茶工場であったと言うが、余りにも貧弱な設備にもの悲しさを感じた。工場内から見上げる屋根は穴だらけで、明るい空がすけていた。
薄暗い工場内の機械は、昭和の初期の代物と云った骨董品である。
現役のこの工場の年間生産量はたったの300kgであった。トンの間違いかと質したが、kgが正解であろう。
背後の茶園に案内されて見下ろした風景画が左記のスケッチ画です。
夕闇迫る中国の田舎風景です。
うれしかったのが、この近くに、近年日本向けの緑茶工場が出来て、日本の大橋さんが来てくれて、
各種の指導をしてくれているとのことである。
大橋さんとは旧知の仲である。
彼が来てから、雑草に埋もれていた茶園が復活しだした。
茶葉の価格も上昇し、農家に活気が出てきたと工場責任者が云っていた。
事務所の近くのシューチャーフュエ
公園内の古い建物を改造した
現役レストラン。

実物は遥かにすばらしい。
私の絵では十分に表現が
出来ていない。
インド・ダージリン茶
2010年12月 紅茶の本場へ専門家を案内した
1976以来35年振りのインドである。さぞかし発展したであろうと思いデリーの町に入るも、
35年間全く進歩していないと写った。むしろ、スリランカの方が進んでいる。
デリーの町中に、馬車が走っている。
当然、昔ながらの牛は市内のどこにでもいる。
インド門 左から、ダウラギリ、アンナプルナ、マナスル、ゴザインタン山郡がはっきりと見えた。私が1976年に頂上に立ったマナスル(8156m)も見えた。隣に座ったフランス人に自慢げに伝えた。
右には、奥まってエベレスト、マカルー、ジャヌー、カンチェンジェンガが見えた。やがて、機は下降を始めた。このコースは世界一の眺めである。冬だから見えるのであろう。 インドの航空会社は昔はAirIndiaだけであったが、自由化が進み、小さな会社が数社できた。このSpicejetもその一つ。ともかく安い。デリー・バグドグラ間1万円弱であった。機内サービスは料金が必要である。日本の新幹線と同じ。これでいいんだーー。 ダージリンには空港はない。平野部のシィリグリーの西にあるこの空港から、クルマで4時間でダージリンに達する。道は狭く、小型ジープしか通れない道である。
ダージリンに行くには、平野部のバグドグラ空港を経なければならない。
空港に降り立つと直ぐに茶園が広がっていた。
どこまでも続く茶園である。テライ地区という
世界遺産の蒸気機関車は世界からの
観光客が乗る。
朝4時起きでタイガー・ヒルに出掛けた。背後に朝日を浴びたカンチェンゲンカが現れた。世界第三位8598m。世界からの観光客の心を捉えて放さないはずである。世界一の絶景である。 茶園はお粗末の限り。肥料は全くやったことがないであろうと思われる茶園である。香気の良さは、この自然の管理から来ているのではないかと思う。日本の茶園は肥料のやり過ぎである。
120年前の機械が現役で使われていた。英国製である。
ダージリンの中心部チョーラスター
朝早く散歩に出た。清々しいヒマラヤを眺めての世界一の散歩道は
写真の右を真っ直ぐに進む。
インドネシアの茶
意外なのがインドネシアでは茶の生産が大変盛んであると言うことです。
日本の年間9万dの生産量に対して、16万8千d(2003年)もの茶が生産されています。
世界の6大産地の一つとして数えられています。世界の全生産量300百万トンの5%であります。
製品は下記のグラフの如く、紅茶73%、緑茶23%の比率です。
インドネシア茶業協会の事務局長であり、国立茶業研究所(ガンブン)の所長でもある、Dr、ATIKとは
1996年以来の友人であり、来日時にいただいた資料を基にした数値です。
なだらかな丘陵地帯には延々と茶園が続きだした。やがて、道は急坂となり、我々を乗せたバスはうなりを上げて曲がりくねった坂を登り続けた。
そして、すばらしい景観の峠に達した。峠から見下ろす緑野は、その殆んどが茶園であった。いづれも丹精を込めた園相を呈し、長い年月の農民の苦労が伝わってきた。大きな感動を覚えた。(ボゴール郊外ブンチャ峠)
むかし、世界平和会議「バンドン会議」なるものがあったと、薄々記憶にあった。やがて、我々を乗せたバスは、そのバンドンの町に達した。町と言うより街か都市の方が相応しい大都会であった。
このバンドンの街中のホテルに宿泊し、翌日、ガンブン国立茶業研究所を伺った。
上記の写真の如く、延々と茶園が続く。山に木はなくとも、茶の木ばかりであった。
上記の写真の、緑の野山は全て茶園である。
10人前後の集団で茶摘が行われていた。のどかで陽気な雰囲気であった。ハサミは、嘗て日本でも使われていたが、違うのは、ニッポンは刃の後ろに、吹流しの布袋であった。当地はプラスチックの箱である。
インドネシアの茶刈回数は年に35回位だと聞いてビックリ。
日本では3回前後だからである。年中夏の赤道直下の国故である。
茶ハサミ。
インドネシアの茶は、77%が紅茶であるが、23%は緑茶である。
しかし、緑茶といっても、日本とは違い、殺青が釜炒りである。日本の緑茶は蒸気で殺青(蒸し)が行われる。
上記の写真は、釜炒り後の茶葉を揉む揉捻機である。紅茶でも使われている巨大揉捻は、
一回に700kg余の投入量である。
インドネシアの茶の主力は、何と言っても紅茶である。紅茶製造には、オソドックスな葉を揉みあげながら乾燥させる昔ながらの方式と、上記の看板のように、CTC方式と言って、ティーバッグ用の紅茶を作る方法があります。CTCはCrush(つぶす)・Tear(引き裂く)・Curl(丸める)の略です。CTCは近代的で衛生的な装置で、短時間で紅茶を作り出す。
茶葉は24時間ほど、萎れさせる。
棚の下からは冷却用の風が送られている。
紅茶原料生葉室
英語でウェザリングと云う
ローラーに挟み込みつぶす。
細胞をつぶして醗酵を促す。

ベルト上で醗酵している。
ゆっくりゆっくりベルトが動いている。
ファーメンテーションという

私は、CTCで出来た紅茶は全く興味がない。
旨いまずいはありますが、やはりオーソドックスな方式で作られた紅茶が好きである。
なぜならば、人間の技が織り込まれているからである。
萎凋の進度、揉捻のかけ具合、醗酵の進度、乾燥温度、どれをとってもプロの技が必要だからである。
インドネシアの茶の輸出内容
生産量と輸出グラフ
輸出先の国名
意外なことが分かる。上位4カ国は全て、紅茶の主要生産国である。
ケニア、スリランカ、中国、インドとなっている。
と云うことは、紅茶はどこで生産されたものかデタラメであると言うことではないか。
紅茶 77%
オーソドックス 90%
CTC 10%
輸出 90%
自国消費 10%
緑茶 23%
輸出 20%
自国消費 80%
2003年資料:インドネシア茶協会
ロシアの茶
ロシアに茶はあるのか?
とよく聞かれる。
黒海に面したグルジアに接近した地のソチが唯一のロシアの茶産地として存在する。
紅茶の歴史は百年ほどある。

ソチの東にはコーカサス山脈が連なり、ここで2014年冬季五輪が開催される。バンクーバーの後である。
黒海に面したソチ港は沿岸各国への外国航路の港であり、早速スケッチブックを取り出した。

Matsesta tea 社 事務所
ソチの町から20kmほど山間部に入ると小さな村を二つ過ぎるとイズマイロブスカヤ村に達する。
綺麗な事務所が新築され、1、2階がM社の事務所、販売店舗。3階は宿泊施設となっている。
しゃれた部屋と食事は、中々の物である。下手なホテルより快適である。
2009年の春は、ここに3週間泊まり、機械の据付をした。
絵のベンチに座るのは、美人のアラ嬢である。
工場から裏山へ登ると、見事な茶園が現れた。


旧ソ連時代から、温暖な気候から保養地として有名であった。
ペレストロイかで、壊れた経済が快調に回復しだした。
オリンピックの誘致成功も加わり、町は活気に沸いていた。

折りしも、経済フォーラムと合致し、街中のホテルは満杯で、我々貧乏人は郊外の、ペンション住まいとなった。
小高い斜面に建つペンションからの眺めに、急いでスケッチブックを取り出した。
黒海は蒼く、空も碧かった。
ボートに曳かれたパラグライダーが沖合いを行き来していた。
宮崎社長とエカテリーナ嬢
2009年9月


社長:オレグ・ユーロビッチ
M社は美女揃い。 ロシア料理はボリューム満点。
ロシア人の食欲には呆れた。
上記の写真と同じ場所から描いたスケッチが左の絵です。カメラのレンズは一眼だが人間は二眼の違いか、私は素直にそのままを描いたつもりだが、こうも遠近感が大きく違うとは不思議である。1934年に隣のスフミ(グルジア)からロシアに始めて茶樹を持ち込んだ、コヒマンの苦難の家。小さな博物館として、地元民が優しく管理していた。

私は、1972年にモスクワ赤の広場を訪れて以来の6度目のモスクワである。
ロシアの伝統ある格調高い文化を改めて思い知った。
2014年に冬季オリンピックの誘致に成功したSOCHIは、黒海から
1.5時間程で、スキー場に達した。
スケッチは、彼の別荘から見たコーカサスの山々。
仕事の合間に、コンスタンチン氏に誘われ、スキーを楽しみ、彼の冬の別荘に招かれた。
スリランカの茶
スリランカはインド、中国に次ぐ世界で3番目の大生産国である。
19世紀〜からの英国人の入植に始まっていて、全てが欧州風でコッコイイ。
茶は中国から始まったわけだが、中国よりはるかに進んでいる。
私は、1998年(フランス・ワールドカップの年)フランス・ブラジルの決勝を
コロンボのヒルトン・ホテルでTV観戦していた。この時のコロンボはヒルトンの22階?の
窓ガラスが全て吹っ飛んだ直後であった。LTTEとの内戦の最中であった。
25年間続いた内戦が今年09年春にやっと終わった。11年振りにスリランカを訪れた。
人々の顔は笑顔が蘇っていた。さー元気を出して国造りに精を出そう。私も何かお役に立ちたいものである。
この国は、日本人より仏教心が旺盛である。そして、日本を心から好きなようである。
私も、スリランカが大好きである。
高い2本の円筒ビルが世界貿易センタービルである。左の四角にビルが私が泊まっていたヒルトンである。これらの窓ガラスが全て吹き飛ぶ爆薬を積んだ4トン車がヒルトンに突っ込んだ。それから、今年春まで、延々と内戦が続いた。 スリランカの紅茶工場は小高い丘に設えてある。インド洋からの風が吹き込み、茶葉の萎凋に欠かせない。紅茶はこの萎凋の度合いが決め手となる工場はエステートと呼ばれる。
全てが、手摘みである。タミール人の女性が摘み手。
男は見ているだけの監督である。一日摘んで16kgが
標準で、それ以上摘むと割り増し料金が出る。
女性は哀れな「奴隷」に近い扱いである。
これでは、解放運動が起きる筈である。
戦争も終わり、改善されると良い。
日本の茶園に匹敵する、綺麗に管理された
茶園が延々と続く。
製造方法は3種ある。いずれもこのような揉捻で40分位グルグル揉む。大きなヒル(button)が特徴。
日本のヒルは親指程で細い。
茶園の中に、日陰を目的とした「木」が植えてある。
太陽光線を浴びすぎると、カテキンが増え、渋い茶となるので、それを防いでいる。
驚いたのが、日本で丁度流行りだした、ポット苗(袋に挿木)が既に行われていたことである。1998年。日本より早くからやっていたのではないかと思う。これで、日本の後藤昇一氏は賞をもらった。
CTCはインドが独占している。
昼に工場にて集荷風景。一人づつ計量される。一日16kgがノルマである。
手摘で16kgは一生懸命やらないと済まない。
CTCライン。
スリランカでは珍しい。しかし、世界の主流はCTCである。ティーバッグ茶はこのCTCで造られる。
11年振りに再会した。大歓待を受けた。背後の私邸に一泊した。スリランカ・トップの紅茶工場である。社長夫妻とアーナンダ 
経営者の住いは、多くの召使を抱えている。英国の植民地時代が色濃く残る。
翌日、山間のヌワラエりアで宿泊したときに、いつの間にか、蛭(ヒル)にやられていた。昔のヒマヤラ遠征でのネパールのジャングルを思い出した。
私が世界で一番好きなホテル。マウント・ラーベーニア・ホテル。 影山、ラクシリ、アーナンダ、リヤナゲ。11年来の親友とホテルで会食。皆元気で頑張っていた。 今回の訪問では、リヤナゲにお世話になった。彼の豪邸に2泊した。奥さんはやっとこの頃、身篭ったとのこと。おめでとう。
来年は、国会議員に立候補予定。国の将来を慮っての動きである。私欲に走らねば、俺も応援に駆けつける。
マウント・ラベーニア・ホテルは海岸に面し、インド洋からの風が吹き付けていた。
欧州からの客が殆どであるが、内戦で客足が途絶えていたが、これからは復活するであろう。日本客も、危険地帯からの解除により、多くの観光客が押し寄せるものと思う。
帰国を前に、下手なスケッチ・ブックを取り出した。
世界を旅しているが、私が最も好きなホテルである。
スリランカにはマルコポーロの「東方見聞録」に登場する名山、「アダムス・ピーク」がある。アルピニストであり、マルコポーロ研究者を自負する自分が、これを見逃すはずはない。休みに、一人で登った。聖山であり、キリスト教のアダムスであるが、麓は涅槃佛と???。2時間程石段を登ると、写真の頂上であった。途中では、誰にも会わなかったが、頂上に達すると、イタりアの二人のご夫人がいた。わざわざ、イタリアから来ていた。富士山と同じで、「登らぬ馬鹿に、二度登る馬鹿」の山であった。 アダムス・ピーク
絵はがきの航空写真
台湾の茶
私は、22歳の(1970年)に台湾を一周したことがある。玉山(台湾の最高峰)、雪山(2番目に高い山)の
登山のためであった。それ以来の、36年ぶりの訪台であった。
私は台湾が大好きである。なぜならば、台湾人が、日本が大好きであるからである。相思相愛と云ったところである。
その台湾が、見事に近代化され、日本に勝るとも劣らない勢いで発展していることに大変うれしかった。
町はきれいになり、高速道路は日本より広く快適である。台北では地下鉄にも乗った。快適であった。
83歳になる日本語を話す老人が言った。「この大統領府の廻りは、戦前は葦の湿地帯で、何もなかったところである。日本軍が来てくれたので、これだけ立派になった。子供たちには、日本語と英語を必須とさせてきた。

台湾総統府
2006年の訪問時には見られなかったが2007年9月の訪問時には「台湾独立」の垂れ幕が総統府正面に掲げられていた。
国立茶業試験場
(農業委員会・茶業改良場)
試験場内の茶園 日本の某メーカーの茶園管理機が2台あった。台湾は中国と同じ、基本的には釜炒りで殺青する。
各種の釜炒り機があり、充実した設備で驚いた。 有機茶園。台湾は日本以上に健康茶が叫ばれ無科学肥料無農薬の栽培が結構多かった。価格も高く、採算が合うようだ。日本は変わらない。 立派な広大な茶園が続いた。中西部
ここも有機栽培であった。やはり、化学肥料を入れないので園相が悪い。
遠くにはビンロウ・ヤシ
立派な茶園である
台湾には数多くの種類の茶が作られている。
しかし、多くが釜炒りである。
かっては、日本向けの蒸気蒸しの煎茶が作られていたが、今日では、
中国、ベトナムに変わった。
台湾の産地は、島の中西部が主産地である。
清潔な近代的な工場であった。
社長夫妻が「茶」を淹れてくれた。
台北 中山公園
トルコの茶
トルコは茶の大国です。生産量22万トン(2009年)。日本の2.2倍。国民一人当たり消費量2kg。
2005年に続き、今月2010年9月に日本製設備の納入に行って来た。
我々メーカーには、ユーザーの守秘義務があり、余すところ伝えれないが、許される範囲で、トルコの
茶を紹介しよう。最終下段に数値表を添付した。
Saziye Ilgaz
Dr.Turgay Tuma
Dr. Sena Saklar Ayyildiz
Ferda Seyhan
トルコの茶の歴史は意外に浅く、1920年に東に位置するグルジアから来た。しかし、1945年に現在のRizeに移る。
Burusaには現在は全く栽培されていない。国立茶研究所長談

左写真:国の生産量の64%を担うCAYKUR社(元国営企業)の
研究所。
中央:Ekrem Yuce (General Direktor)は従業員2万人を率いる。毎日我々の作業場に顔を出した。

茶産地リゼに行くのには、イスタンブールから国内便で2時間ほどで
黒海南岸トラブゾンまで空路で入る。
このトラブゾンは私の長年の憧れの町である。
1293年に中国からベニスに帰るマルコポーロが船に乗った
港である。

左:写真はそのトラブゾン港。昔の面影は無かった。
右:黒海を一望できる町中のしゃれたハウス。
トラブゾンから茶産地リゼは100kmの高速道路で結ばれている。
雨が多く、茶栽培には適している。我々滞在中の一週間に、四日間は雨が降った。CAYKUR茶業研究所より望むリゼの町並み。黒海に面したきれいな街である。このリゼ地域でしか茶は栽培されていない。気候は、日本の静岡より寒い。冬には雪が少し積もるときもある。一番茶は5月20日頃からである。日本の奈良、岐阜と云ったところだろう。
我々の設備を引渡し後、施主の研究所、補助したトルコ農業省
本省研究官達と茶園の見学に出掛けた。
急峻な山並みはどこまでも茶園が連なっている。
イスラム国であり、モスク(ジャミー)が尖塔を聳え立たせている。
日本の山間地以上の急傾斜地が多い。 風呂敷で葉を運ぶ。畝がなく、掻き分けて入るのも大変。肥料なぞやれる状態でない。当然有機になる。 10年ほど前から当手ハサミが普及しだした。
集落のあちこちの生葉集荷場 紅茶工場に着いた生葉を積んだトラックからの荷下ろしは、コンベヤに掻き落すスイーパー。
巨大な揉捻機(800kg)が24台フル稼働していた。
きれいに整備された近代的な工場であった。労働者の影は殆んど見掛けなかった。全自動である。こうした工場を16ヶ所所有している。これだけで日本の全生産量より多くを産する。
大型ローターバンがあった。
スリランカだけかと思っていたが、
トルコにも有ったとは驚いた。


トルコにもあった緑茶ライン
紅茶の年間生産量22万トンであるが、ほんの少しの蒸製緑茶を作っていた。
ほんの少しと言っても、とんでもない生産量である。詳細については省略する。
やっと見せてもらったもので、守秘義務で写真アップのみ。
車窓からの紅茶工場のスナップ。
燃料は石炭が今尚主流である。
トラブゾンーリゼ間には、こうした紅茶工場が数多く並ぶ。
ラマダン「断食」は夜七時まで水も飲めない。CAYKURの幹部が揃い、夕食をご馳走になった。しかし、イスラムは普段でも禁酒であり、何と味気ないパーティーである。
アッラーアクバル(神は偉大なり)

トルコの茶は紅茶が主力(ほとんど)である。国民一人当たりの消費量は、世界6位の2.1kgである。日本人は800gで15位である。その数値が正解であることが、トルコを自転車横断した私には分かる。
立ち寄った先では、必ず「チャイ」の声が掛り、何杯ものチャイが出された。一般商店では、三杯までは飲んでも良いが、それ以上飲むと、商品を買うことを意味していることが、後になって分かった。
トルコは現在EUへの加盟を申請中である。現在は準加盟国である。EU圏内には「茶」を生産している国はなく関係者は熱く燃えていた。
トルコを愛する私としては、EU並みの国家水準に早くなることを待っています。
砂糖だけでミルクは入れない。何倍でもすすめられ、腹はガボガボ。トイレが近くなるのは当然である。
リゼにて。
どの街にも喫茶店の「お茶屋」が数多くある。そして、出前で近所の商店へこの様に運ぶ。店に入れば、直ぐにお茶屋がこうして持ってくる。電話をした気配もなく、店に入るのをお茶屋が見ているのではないかと思う。取り寄せた方のレジの横に、引き換えコイン(プラスチック)がいっぱい入った箱があり、運んできたボーイは何も言わずに、コインを数だけ持ってゆくシステムである。一杯の価格は、水と大差ない安値であった。
折り悪くラマダン(断食)に出くわした。
お茶やでも人影が少ない。トラブゾンで
世界の茶の生産量について  FAO Statistics 
順位 国名 生産量(万トン)(2004年)
1 中国(China ) 85.5
2 インド(India) 85.1
3 スリランカ(Sri Lanka) 30.8
4 ケニア(Kenya) 29.5
5 トルコ(Turkey) 20.2
6 インドネシア(Indonesia) 16.5
7 ベトナム(Viet Nam) 10.8
8 日本(Japan) 10.1
9 アルゼンチン(Argentina) 6.4
10 バングラデシュ(Bangladesh) 5.8
11 イラン(Iran, Islamic Rep of) 5.2
12 マラウィ(Malawi) 5.0
13 ウガンダ(Uganda) 3.6
14 タンザニア(Tanzania, United Rep of) 2.6
15 ミャンマー(Myanmar) 2.5
16 ブラジル(Brazil) 2.3
17 ジンバブエ(Zimbabwe) 2.2
18 グルジア(Georgia) 2.0
19 ルワンダ(Rwanda) 1.4
20 南アフリカ(South Africa) 1.3

茶の国別消費量(上位10カ国)
順位 国  名 消費量(万t)
インド 75.4
中国 58.8
CIS諸国 23.2
日本 15.0
トルコ 14.3
イギリス 13.0
パキスタン 12.5
アメリカ 10.2
エジプト 7.4
10 イラン 6.4
ITC統計2004-2006
順位 国  名 1人当たり消費量
イラク 2.40kg
アイルランド 2.35kg
リビア 2.28kg
イギリス 2.17kg
クウェート 2.05kg
トルコ 2.01kg
カタール 1.97kg
シリア 1.63kg
モロッコ 1.58kg
10 アフガニスタン 1.56kg
15 日本 1.18kg
日本の茶
日本製 製茶機械 輸出業務 スリランカ製 紅茶機械 輸入業務
株式会社マルコ・ポーロ ジャポン
〒436-0343 静岡県掛川市五明332 tel.0537-28-0864 ip.050-3422-0599 fax.0537-28-0736
E-mail:junkage@shizuoka.tnc.ne.jp  影山 淳(kageyama jun)
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